今、私たちがいる尾張東部地域に、大雨警報が出ています。
時折小降りになりながら、風と雨が強くなっています。
今日の午前中は村雲小学校で水防訓練でした。
消防署の方から、最近の豪雨についての話を伺いながら、岐阜県可児市の去年の豪雨でさえ、記憶から遠くなってしまっていることに気づきました。
温暖化、ヒートアイランド現象によって、ゲリラ豪雨(これは気象用語ではなく、マスコミが使い始めた言葉だそうです)が多くなっている昨今、たしか…3年前だったかと思いますが、鶴舞の駅前が冠水して通れなくなってしまったことがありました。
地下にいる場合や地下室がある場合など、外のゲリラ豪雨に気づかない場合もあるかもしれません。
色々なことを想定し、想像力を発揮しながらの生活をしていきたいと思います。
村雲学区の皆さま、また消防団などで水防訓練に参加された皆さま、お疲れ様でした。
消防団の方が、AEDなどの使い方を自信をもって説明されているのを見て、頼もしさを感じました。
2011年5月24日火曜日
2011年5月20日金曜日
2011年5月15日日曜日
卒業生と…
昨日は卒業生が飲み会を設定してくれました。
こうしたプライベートなことはあまり書いていませんが、
セッティングをしてくれたヒサに、そして久しぶりに会えた卒業生の面々や元同僚の先生への感謝の気持ちで記しています。
新卒の頃は、実はあまり年が違っていなかった訳で、同じ40代になろうとしている卒業生たちですが、やっぱり若い!
みんな元気!
子どもの悩みなどを言いながらも、パワフルでした。
そして、女の子から帰り際に言われたのは「いつもニコニコしてるイメージだったけど、変わってないね。」
うーん。
結構、困ったり、悩んだり、怒ったり、暗くなってたりしてましたが…。
指導や授業が上手くいかず大変だったんです。
でも、いいイメージをもってくれているのは有り難いです。
イメージを崩さないように、頑張らないと。
今日は広路学区の運動会へ。
二つも競技に出させていただきました。
係の方々の手際の良さと段取りよい進行に感心しながら会場を後にしました。
こうしたプライベートなことはあまり書いていませんが、
セッティングをしてくれたヒサに、そして久しぶりに会えた卒業生の面々や元同僚の先生への感謝の気持ちで記しています。
新卒の頃は、実はあまり年が違っていなかった訳で、同じ40代になろうとしている卒業生たちですが、やっぱり若い!
みんな元気!
子どもの悩みなどを言いながらも、パワフルでした。
そして、女の子から帰り際に言われたのは「いつもニコニコしてるイメージだったけど、変わってないね。」
うーん。
結構、困ったり、悩んだり、怒ったり、暗くなってたりしてましたが…。
指導や授業が上手くいかず大変だったんです。
でも、いいイメージをもってくれているのは有り難いです。
イメージを崩さないように、頑張らないと。
今日は広路学区の運動会へ。
二つも競技に出させていただきました。
係の方々の手際の良さと段取りよい進行に感心しながら会場を後にしました。
2011年5月11日水曜日
東北ボランティア その5
パソコンの調子が悪く、ボランティア報告の間が少し空きました。
浜岡原発が停止することになりました。
こうしてブログを書くのも電気を使っている訳ですが、
いよいよ中部圏の私たちも生活を見直していくことになります。
先日読んだ雑誌にニジェールのウラン鉱山のことが載っていました。
電力の大半を原子力に依存しているフランス。
フランスの電気自動車の普及も豊富な電力によるのでしょう。
でも私は、その放射線燃料がどこから調達されているかまで、実は考えたことがありませんでした。
フランスは世界最貧国の一つであるニジェールで放射線燃料を調達しており、
ウラン採掘の現場は、実は健康被害がある大変な状況ではないかと懸念されています。
実態は明らかにされていないようですが、エネルギー供給の大もとについては意識がなかった自分に気づきました。
さてようやく報告の続きです。
⑧南三陸町
記録が時間をさかのぼる形になっています。
東北の被災地で最初に行ったのは、南三陸町でした。
海沿いの4階建ての建築物が、4階の窓までガラスが破れ、いろいろな物がぶら下がっているのを、自分の目で最初に見たとき、
本当にあの高さまで水が増えたのだと、驚くよりほかありませんでした。
船が玄関の屋根の上に上がってしまっている志津川病院。
遠藤さんという女性が最期まで避難を呼びかけ続けた防災対策庁舎。
多くの方が波にのまれたことを思うと、その跡かたの無残さと相まって・・・。
バスでお隣になった岩田さんがスマートフォンで撮った映像があります。
紹介させていただきます。
http://www.youtube.com/user/kaoring1118?feature=mhum
⑨「津波浸水想定区域」
しばしばこの「津波浸水想定区域」という看板を見ました。
まだ建っているものもあれば、倒れているものもありました。津波の水の量を私は数字では表せませんが、入り江とそのそばの家があたりを見ながら、ここが全て水で埋まったのかと思うと、凄い水の量です。
今回は想定量を覆しましたが、津波を想定していたことがいざという時の逃げ道の確保につながったようです。
どこまで「想定」し、どこまで、何によってどのような対応をするのかについては、大きく議論をしていかなければなりません。
これで、報告はひとまずの区切りにしたいと思います。
ボランティアの行く時に東北自動車道から見た景色では、まだ田んぼに水は張られていませんでしたが、帰るときには、田んぼに水が入り、いよいよ田植えとなっていく風景でした。
季節の移り変わりを感じました。
最後に、小泉浜の作業の前に見た横にまっすぐの虹の写真を載せたいと思います。
被災地の方々が、明日に希望がもてるよう、私も私にできることで頑張っていきたいと思います。
浜岡原発が停止することになりました。
こうしてブログを書くのも電気を使っている訳ですが、
いよいよ中部圏の私たちも生活を見直していくことになります。
先日読んだ雑誌にニジェールのウラン鉱山のことが載っていました。
電力の大半を原子力に依存しているフランス。
フランスの電気自動車の普及も豊富な電力によるのでしょう。
でも私は、その放射線燃料がどこから調達されているかまで、実は考えたことがありませんでした。
フランスは世界最貧国の一つであるニジェールで放射線燃料を調達しており、
ウラン採掘の現場は、実は健康被害がある大変な状況ではないかと懸念されています。
実態は明らかにされていないようですが、エネルギー供給の大もとについては意識がなかった自分に気づきました。
さてようやく報告の続きです。
⑧南三陸町
記録が時間をさかのぼる形になっています。
東北の被災地で最初に行ったのは、南三陸町でした。
海沿いの4階建ての建築物が、4階の窓までガラスが破れ、いろいろな物がぶら下がっているのを、自分の目で最初に見たとき、
本当にあの高さまで水が増えたのだと、驚くよりほかありませんでした。
船が玄関の屋根の上に上がってしまっている志津川病院。
遠藤さんという女性が最期まで避難を呼びかけ続けた防災対策庁舎。
多くの方が波にのまれたことを思うと、その跡かたの無残さと相まって・・・。
バスでお隣になった岩田さんがスマートフォンで撮った映像があります。
紹介させていただきます。
http://www.youtube.com/user/kaoring1118?feature=mhum
⑨「津波浸水想定区域」
しばしばこの「津波浸水想定区域」という看板を見ました。
まだ建っているものもあれば、倒れているものもありました。津波の水の量を私は数字では表せませんが、入り江とそのそばの家があたりを見ながら、ここが全て水で埋まったのかと思うと、凄い水の量です。
今回は想定量を覆しましたが、津波を想定していたことがいざという時の逃げ道の確保につながったようです。
どこまで「想定」し、どこまで、何によってどのような対応をするのかについては、大きく議論をしていかなければなりません。
これで、報告はひとまずの区切りにしたいと思います。
ボランティアの行く時に東北自動車道から見た景色では、まだ田んぼに水は張られていませんでしたが、帰るときには、田んぼに水が入り、いよいよ田植えとなっていく風景でした。
季節の移り変わりを感じました。
最後に、小泉浜の作業の前に見た横にまっすぐの虹の写真を載せたいと思います。
被災地の方々が、明日に希望がもてるよう、私も私にできることで頑張っていきたいと思います。
2011年5月8日日曜日
東北ボランティア その4
そろそろブログでの報告を終わりにして、
愛知ボラセンに感想を送るという宿題に移りたいと思います。
が、今日で書き終わるかどうかは…?
⑦津波被害の様子
東北自動車道を北上していくと、木々の芽が出かけ、山桜が咲き、水仙や菜の花が道端を彩っていました。
季節がひと月ほど逆戻りした感じでした。
被災直後からほんの少し前までは、本当に寒い時を過ごされていたことを思います。
そうした自然の様子を見ながら入った内陸の市街地はほとんど地震で被害を受けた様子はなく、
阪神大震災の時の神戸の市街地とは様相が大きく違っていました。
しかし、山道を進んでいくと突然、家が壊れ、材木や車が瓦礫と化してしまっている光景が現れます。
海はどこ?
と、バスの前後を見渡しても海は見えず、細い川らしきものが見えるだけ。
その山あいを抜けるとようやく海が見え、狭い山の間を抜けて津波が押し寄せ、引いていったんだと分かります。
津波は山の中にも来たという感じです。
山の木々には、衣服などの布類が引っかかったまま。
船も山に登ってきています。
家は基礎しか残っていないところもあれば、柱や2階は残ってはいるけれども、中は引いた波が残した大量のものが引っかかっている状態の家もあります。
線路は、波に押されて切れてぶら下がり、自動車はあちらこちらで引っくり返っています。
瓦礫と化した物ものが既に集められているところもあれば、まだそのままに残っているところもあります。
大きな道路は通れるようになっていましたが、当初はここも覆われていたのだと思うと、さらに酷い状況が思われます。
南三陸町の様子を写真とともに報告をしたいと思いますので、やっぱりまだ報告ブログは続きます。
愛知ボラセンに感想を送るという宿題に移りたいと思います。
が、今日で書き終わるかどうかは…?
⑦津波被害の様子
東北自動車道を北上していくと、木々の芽が出かけ、山桜が咲き、水仙や菜の花が道端を彩っていました。
季節がひと月ほど逆戻りした感じでした。
被災直後からほんの少し前までは、本当に寒い時を過ごされていたことを思います。
そうした自然の様子を見ながら入った内陸の市街地はほとんど地震で被害を受けた様子はなく、
阪神大震災の時の神戸の市街地とは様相が大きく違っていました。
しかし、山道を進んでいくと突然、家が壊れ、材木や車が瓦礫と化してしまっている光景が現れます。
海はどこ?
と、バスの前後を見渡しても海は見えず、細い川らしきものが見えるだけ。
その山あいを抜けるとようやく海が見え、狭い山の間を抜けて津波が押し寄せ、引いていったんだと分かります。
津波は山の中にも来たという感じです。
山の木々には、衣服などの布類が引っかかったまま。
船も山に登ってきています。
家は基礎しか残っていないところもあれば、柱や2階は残ってはいるけれども、中は引いた波が残した大量のものが引っかかっている状態の家もあります。
線路は、波に押されて切れてぶら下がり、自動車はあちらこちらで引っくり返っています。
瓦礫と化した物ものが既に集められているところもあれば、まだそのままに残っているところもあります。
大きな道路は通れるようになっていましたが、当初はここも覆われていたのだと思うと、さらに酷い状況が思われます。
南三陸町の様子を写真とともに報告をしたいと思いますので、やっぱりまだ報告ブログは続きます。
2011年5月7日土曜日
東北ボランティア その3
今日は「AJU自立の家」の後援会総会に出席しました。
「AJU自立の家」では、被災からの緊急の要請を受け、支援隊や障害者介助の専門スタッフの派遣、救援物資と避難所間仕切りセットを送るなどの障害者支援を行っており、その報告が12ページにわたってまとめられていました。
そして、従来の支援の原則が「大量・一斉・公平・画一」であったのを改め、「個別・適時・優先的・多様」が新しい支援の方向であるべきと、今回の体験からの痛切な思いが述べられています。
私が見た被災地は本当に表面でしかありませんが、でも行く前よりは確実に理解の深さは違っています。
報告の続きです。
⑤電気とトイレ
久しぶりにバキュームカーを見ました。
避難所のトイレが限界状態になって、緊急で汲み取りの要請をしたようです。
浜区の避難所は車いす用のトイレも設置してあって、そうした点では配慮がされていました。
写真の右奥の白いテント状のものです。
しかし、名古屋にはどれだけのバキュームカーが今、存在しているのでしょう。
被災した場合のトイレについては、色々と工夫がされつつありますが、広域的に被災した場合にはとても対応できないだろうと感じました。
また、行き帰りのSAでは、「停電時にはトイレは使えません」との張り紙。
今のトイレは手をかざせば水が流れるのはいいけれど…、手では動かない。
手をかざせば水が出る蛇口も、電気がなければ動かないでしょう。
自分で動かす生活に戻すべきですね。
「なぜオール電化が良いのか」という私の疑問に対して、
「電気が一番早く復旧するから」と答えをいただいたことがあります。
しかし1か月半以上経っても電気が復旧しない現状から、やはり一つのものに偏るべきではないと言えるでしょう。
⑥子どもたち
瓦礫作業班から離れ、子どもたちのいる泊崎の避難所のチームに少し参加させてもらいました。
小学生、中学生の子どもたちのメンタルの部分に対応しようと、メディカルチームが出向いたものです。
一緒に遊ぶことを通して…だったので、最近運動していない体にムチ打って一緒にドッチボールやらバレーボールやら。
一緒に動くのに必死、そして、どのように声をかけるものか悩む中で、あまり子どもたちの声を聴くことはできませんでした。
しかし、他のボランティアグループの方が写真を撮らせてとカメラを向けると、全員が逃げていった様子、かなり乱暴な言葉遣い、低空飛行のヘリコプターを見て「人を探しているんだ」と遠い目をした男子中学生。
こうした姿から子どもたちの心が垣間見られます。
これからの生活の目途、落ち着いた居場所、明日への安心がもてることが一番の「こころのケア」だと感じました。
宮城県からは、文科省を通して愛知県にも教員派遣の要請が来ているようです。
大変な取り組みですが、子どもたちのため、出向かれる教員の方々のご活躍をお祈りいたします。
「AJU自立の家」では、被災からの緊急の要請を受け、支援隊や障害者介助の専門スタッフの派遣、救援物資と避難所間仕切りセットを送るなどの障害者支援を行っており、その報告が12ページにわたってまとめられていました。
そして、従来の支援の原則が「大量・一斉・公平・画一」であったのを改め、「個別・適時・優先的・多様」が新しい支援の方向であるべきと、今回の体験からの痛切な思いが述べられています。
私が見た被災地は本当に表面でしかありませんが、でも行く前よりは確実に理解の深さは違っています。
報告の続きです。
⑤電気とトイレ
久しぶりにバキュームカーを見ました。
避難所のトイレが限界状態になって、緊急で汲み取りの要請をしたようです。
浜区の避難所は車いす用のトイレも設置してあって、そうした点では配慮がされていました。
写真の右奥の白いテント状のものです。
しかし、名古屋にはどれだけのバキュームカーが今、存在しているのでしょう。
被災した場合のトイレについては、色々と工夫がされつつありますが、広域的に被災した場合にはとても対応できないだろうと感じました。
また、行き帰りのSAでは、「停電時にはトイレは使えません」との張り紙。
今のトイレは手をかざせば水が流れるのはいいけれど…、手では動かない。
手をかざせば水が出る蛇口も、電気がなければ動かないでしょう。
自分で動かす生活に戻すべきですね。
「なぜオール電化が良いのか」という私の疑問に対して、
「電気が一番早く復旧するから」と答えをいただいたことがあります。
しかし1か月半以上経っても電気が復旧しない現状から、やはり一つのものに偏るべきではないと言えるでしょう。
⑥子どもたち
瓦礫作業班から離れ、子どもたちのいる泊崎の避難所のチームに少し参加させてもらいました。
小学生、中学生の子どもたちのメンタルの部分に対応しようと、メディカルチームが出向いたものです。
一緒に遊ぶことを通して…だったので、最近運動していない体にムチ打って一緒にドッチボールやらバレーボールやら。
一緒に動くのに必死、そして、どのように声をかけるものか悩む中で、あまり子どもたちの声を聴くことはできませんでした。
しかし、他のボランティアグループの方が写真を撮らせてとカメラを向けると、全員が逃げていった様子、かなり乱暴な言葉遣い、低空飛行のヘリコプターを見て「人を探しているんだ」と遠い目をした男子中学生。
こうした姿から子どもたちの心が垣間見られます。
これからの生活の目途、落ち着いた居場所、明日への安心がもてることが一番の「こころのケア」だと感じました。
宮城県からは、文科省を通して愛知県にも教員派遣の要請が来ているようです。
大変な取り組みですが、子どもたちのため、出向かれる教員の方々のご活躍をお祈りいたします。
2011年5月6日金曜日
東北ボランティア その2
今朝は寝坊しました。
しかも筋肉痛です。
ボランティアの話をすると、「県会議員なのに一般のボランティアに?」というリアクションをしてくださる方がいらっしゃいますが、まだ被災地は私たち県会議員が調査に出向く状況ではありません。
被災地のために大きく予算を組む国とは立場が違いますので、まずは自分の目で被災地を見て感じるために出向きました。
さて、昨日の報告の続きです。
④瓦礫(元は大事なものばかり)撤去作業
土地のくぼみに積もったものを片づける作業をしました。
折れた船。桜の樹に引っかかった物置。
家の梁と思われる材木。釘の出た多くの木片。
家の外壁。壊れた戸棚。瓦。割れたガラス。
鍋。茶碗。漁の網。お土産の人形。ビデオテープ。
自主学習帳。写真。診察券。
中には位牌も…。
本当に家が丸々、つまり生活が丸々流された跡の片づけです。
一つひとつ見ていると心が痛みます。
でも、人の手で丁寧に片づけていると、思い出の品を発見でき、地域の方にお渡しすることができました。
重機ではできない作業です。
またその重機が、浜区にはまだ入っていません。
重機を待っていてはいつまでたっても片付かないので、ボランティアの人界戦術が役に立ちます。
折れた船をくぼ地から引き揚げるのも、ロープで引く人、船首を上げる人、後ろからバランスを取る人と、現場監督(?)の指示のもと、役割分担をしながら力を合わせての作業でした。
引き揚げ終わった時には、「やったー!!!」と、思わず記念撮影してしまいました。
私たちが担当したくぼ地だけでなく、家の前にも流れ残った小屋があったり、押し流されてきた車があったりなど、片づけものが沢山ある中、地域の人だけでこの作業はとてもできません。
5月4日には、浜区に600人のボランティアさんが集まったとのこと。
3日に入った時と4日に帰る時には、地域の様子がずいぶんと変わっていました。
左から作業前。船の引き上げの様子。船を引き揚げての記念写真です。
しかも筋肉痛です。
ボランティアの話をすると、「県会議員なのに一般のボランティアに?」というリアクションをしてくださる方がいらっしゃいますが、まだ被災地は私たち県会議員が調査に出向く状況ではありません。
被災地のために大きく予算を組む国とは立場が違いますので、まずは自分の目で被災地を見て感じるために出向きました。
さて、昨日の報告の続きです。
④瓦礫(元は大事なものばかり)撤去作業
土地のくぼみに積もったものを片づける作業をしました。
折れた船。桜の樹に引っかかった物置。
家の梁と思われる材木。釘の出た多くの木片。
家の外壁。壊れた戸棚。瓦。割れたガラス。
鍋。茶碗。漁の網。お土産の人形。ビデオテープ。
自主学習帳。写真。診察券。
中には位牌も…。
本当に家が丸々、つまり生活が丸々流された跡の片づけです。
一つひとつ見ていると心が痛みます。
でも、人の手で丁寧に片づけていると、思い出の品を発見でき、地域の方にお渡しすることができました。
重機ではできない作業です。
またその重機が、浜区にはまだ入っていません。
重機を待っていてはいつまでたっても片付かないので、ボランティアの人界戦術が役に立ちます。
折れた船をくぼ地から引き揚げるのも、ロープで引く人、船首を上げる人、後ろからバランスを取る人と、現場監督(?)の指示のもと、役割分担をしながら力を合わせての作業でした。
引き揚げ終わった時には、「やったー!!!」と、思わず記念撮影してしまいました。
私たちが担当したくぼ地だけでなく、家の前にも流れ残った小屋があったり、押し流されてきた車があったりなど、片づけものが沢山ある中、地域の人だけでこの作業はとてもできません。
5月4日には、浜区に600人のボランティアさんが集まったとのこと。
3日に入った時と4日に帰る時には、地域の様子がずいぶんと変わっていました。
左から作業前。船の引き上げの様子。船を引き揚げての記念写真です。
2011年5月5日木曜日
東北ボランティアに行ってきました。
今朝の8時半、東別院に到着しました。
途中の休憩と渋滞の時間がありますが、東北から約15時間かかりました。
普通の観光バスでの車中2泊はキツイものがありましたが、さすがに帰りはかなり寝ることができました。
そして家に着いてまずホッとしましたが、こうしてホッとできるのも自宅があるおかげです。
避難所にいる方々は、ずっと集団生活です。
私たちが行った気仙沼市浜区はまだ電気も水道も復旧していない状態。
1か月半も不便な生活が続いていました。
さて報告をいくつかに分けて載せさせていただこうと思います。しかも何日かに分けての報告になりそうです。
①愛知ボラセンのメンバーについて
代表の東海中・高校の久田先生が、阪神大震災の時から私学の生徒たちによるボランティア活動を続けてみえたのが、今回のボランティアにもつながっているそうです。
参加メンバーは約500人の中から選ばれた45人で、中学生から70代の方まで、年齢層も職種もさまざまでした。
メディカルチームと、リラクゼーションチームは構成できるよう人選がされていました。
他は、造園業の方や電気関係の方、留学生、大学関係者などなど、これまでのボランティア経験や特技、久田先生の嗅覚が働いた人選だったようです。
参加者の方に私の職をあまりお伝えしていませんが、たぶん私は議員特権…?
今回の経験を今後に生かすためですね。
②避難所について
避難所の中については、一緒に行ったグループの中でも、リラクゼーションチームの方などは入ることができましたが、私たち作業班は勝手に入ることはできず、タイミング悪く許可を得ることもできませんでした。
話でしか中の様子を伺い知ることができませんでしたが、せまい所なので仕切りを設けて個人スペースを作ることもできず、隣り合って布団を敷いて生活をしているという、かなり窮屈な状態のようです。
リラクゼーションチームの方からは、疲れで体がすごく硬くなっているという報告。
運営についても、避難所ごとで様々な違いがあるようです。
運営などについては、今後調査をさせていただきたいと思っています。
③地域の方と
少しだけ地域の方とお話する機会がありました。
高台にあるにもかかわらずご自宅1階の半分くらいまで水が来た女性の方は、津波が来る様子を「大きな黒い壁が押し寄せてきた」と語ってくださいました。
その「黒い壁」は「船を上に載せて」。そして「ビシビシという音がした」「渦を巻いて水が引いていった」「翌日の娘の中学校の卒業式が気になって…」など、津波が来た時の状況です。
車で出かけていた先で、御主人から津波がくるという電話があって山の方の道に回ったから命が助かったともお話してくださいました。
海沿いの道は渋滞で車が進まなかったとのこと。
その道にいて犠牲になられた方も多かったのではないでしょうか。
車に乗っていた方には、十分には津波の情報が届いていなかったのかもしれません。
車の方を含め、情報の伝え方も大きな課題だと改めて感じました。
では今日はここまでで。
今後また作業や町の様子などをご報告します。
途中の休憩と渋滞の時間がありますが、東北から約15時間かかりました。
普通の観光バスでの車中2泊はキツイものがありましたが、さすがに帰りはかなり寝ることができました。
そして家に着いてまずホッとしましたが、こうしてホッとできるのも自宅があるおかげです。
避難所にいる方々は、ずっと集団生活です。
私たちが行った気仙沼市浜区はまだ電気も水道も復旧していない状態。
1か月半も不便な生活が続いていました。
さて報告をいくつかに分けて載せさせていただこうと思います。しかも何日かに分けての報告になりそうです。
①愛知ボラセンのメンバーについて
代表の東海中・高校の久田先生が、阪神大震災の時から私学の生徒たちによるボランティア活動を続けてみえたのが、今回のボランティアにもつながっているそうです。
参加メンバーは約500人の中から選ばれた45人で、中学生から70代の方まで、年齢層も職種もさまざまでした。
メディカルチームと、リラクゼーションチームは構成できるよう人選がされていました。
他は、造園業の方や電気関係の方、留学生、大学関係者などなど、これまでのボランティア経験や特技、久田先生の嗅覚が働いた人選だったようです。
参加者の方に私の職をあまりお伝えしていませんが、たぶん私は議員特権…?
今回の経験を今後に生かすためですね。
②避難所について
避難所の中については、一緒に行ったグループの中でも、リラクゼーションチームの方などは入ることができましたが、私たち作業班は勝手に入ることはできず、タイミング悪く許可を得ることもできませんでした。
話でしか中の様子を伺い知ることができませんでしたが、せまい所なので仕切りを設けて個人スペースを作ることもできず、隣り合って布団を敷いて生活をしているという、かなり窮屈な状態のようです。
リラクゼーションチームの方からは、疲れで体がすごく硬くなっているという報告。
運営についても、避難所ごとで様々な違いがあるようです。
運営などについては、今後調査をさせていただきたいと思っています。
③地域の方と
少しだけ地域の方とお話する機会がありました。
高台にあるにもかかわらずご自宅1階の半分くらいまで水が来た女性の方は、津波が来る様子を「大きな黒い壁が押し寄せてきた」と語ってくださいました。
その「黒い壁」は「船を上に載せて」。そして「ビシビシという音がした」「渦を巻いて水が引いていった」「翌日の娘の中学校の卒業式が気になって…」など、津波が来た時の状況です。
車で出かけていた先で、御主人から津波がくるという電話があって山の方の道に回ったから命が助かったともお話してくださいました。
海沿いの道は渋滞で車が進まなかったとのこと。
その道にいて犠牲になられた方も多かったのではないでしょうか。
車に乗っていた方には、十分には津波の情報が届いていなかったのかもしれません。
車の方を含め、情報の伝え方も大きな課題だと改めて感じました。
では今日はここまでで。
今後また作業や町の様子などをご報告します。
2011年5月1日日曜日
宮城県に行ってきます。
明日の夜から宮城県の気仙沼市浜町にボランティアに行ってきます。
5月2日夜発、5日朝着の車中2泊、宿1泊の愛知ボランティアセンター主催のものです。
応募して45人のうちに入ることができました。
多くの方が応募されたとのこと。選にもれた方の分も頑張ってきます。
ただ、当初は石巻市立湊小学校を中心とした活動の予定でしたので、被災した学校の様子をしっかりと目に焼き付けて、今後、特に子どもたちや学校に関してどのような支援をすべきなのか、調査の意味を含めてボランティアを行ってきたいと思っていました。
しかし、今回は変更となり、浜町センターでの活動になるとのことです。直接は学校の様子を見られないかもしれません。瓦礫等を扱う作業となるようです。
被災地や被災者の方への支援、愛知の防災について、多くの方からお気持ちや、ご意見をいただいています。
そうしたお一人お一人の想いを活かしながら、復興と防災に向けて動くことができるよう、被災地の現状を見、作業を通して、しっかりと感じ、考えてきたいと思っています。
5月2日夜発、5日朝着の車中2泊、宿1泊の愛知ボランティアセンター主催のものです。
応募して45人のうちに入ることができました。
多くの方が応募されたとのこと。選にもれた方の分も頑張ってきます。
ただ、当初は石巻市立湊小学校を中心とした活動の予定でしたので、被災した学校の様子をしっかりと目に焼き付けて、今後、特に子どもたちや学校に関してどのような支援をすべきなのか、調査の意味を含めてボランティアを行ってきたいと思っていました。
しかし、今回は変更となり、浜町センターでの活動になるとのことです。直接は学校の様子を見られないかもしれません。瓦礫等を扱う作業となるようです。
被災地や被災者の方への支援、愛知の防災について、多くの方からお気持ちや、ご意見をいただいています。
そうしたお一人お一人の想いを活かしながら、復興と防災に向けて動くことができるよう、被災地の現状を見、作業を通して、しっかりと感じ、考えてきたいと思っています。
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